クジラ

日本がIWC(国際捕鯨委員会)からの脱退を正式に表明。

菅官房長官の談話、

「条約に明記されている捕鯨産業の秩序ある発展という目的はおよそ顧みられることはなく、
捕鯨に対する異なる意見や立場が共存する可能性すらないことが誠に残念ながら明らかとなった」

とても良い事だと思う。
日本はいつも言われるがままでおとなしすぎます。

言うべきことは言う、行動すべき時は行動する。

少しだけまともな国になってきた。

だいたいが
国際〇〇という団体は、インチキなものがほとんど。

IWCの成り立ち、日本との関わりについては
上島嘉郎氏の記事が参考になります。

日本政府は12月26日、
国際捕鯨取締条約に基づき
クジラ資源の管理を担う国際捕鯨委員会(International Whaling Commission=IWC)からの脱退を、条約を管理する寄託国の米国に通告しました。これによって日本は来年6月30日に脱退、同7月から日本近海で商業捕鯨を再開する予定です。

IWCは、もともとクジラ類資源の保護と捕鯨業の秩序ある発展を目的に1948年に発足(1946年に署名された国際捕鯨取締条約が1948年に発効したことによる)した国際機関です。日本の加盟は1951(昭和26)年で、当時の実情はノルウェー、イギリス、オランダ、旧ソ連、日本など、実際に捕鯨を行っている国々の間で捕鯨枠を決めるための会議でした。

それが1960年代にイギリスとオランダが捕鯨から撤退し、1972年の国連人間環境会議(ストックホルム会議)で10年間の商業捕鯨の一時停止(モラトリアム)宣言が決議されて以後は、反捕鯨活動の場としての色彩が急速に強まり、日本やノルウェーといった捕鯨継続を望む国と、欧米を中心とする反捕鯨国の対立の場となってきました。数でいえば前者が少数派、後者が多数派です。

アメリカがかつては大規模な捕鯨国であったことは、メルヴィルの『白鯨』を読むまでもありませんが、彼らの捕鯨の目的は「鯨油」にあり、その必要性が薄れるとともに捕鯨から撤退し、いまや反捕鯨を主導する国の一つです。

捕鯨問題は対立するそれぞれの国の文化や宗教が背景にあり、就中(なかんずく)人間としての殺生観に行き着くことから、善悪論には馴染まないはずですが、反捕鯨国は「クジラは特別な生き物」「知能が高い人間の友人」といった考え方から鯨食を野蛮と見なし、非難を続けています。クジラを資源として科学的に捉える視点は軽んじられ、近年のIWCの議論は不毛に陥ったまま、当初目的から完全に外れ機能不全に陥っていました。

1970年代後半の総会では、日本代表団が反捕鯨団体のメンバーから赤い染料をかけられ、「殺人者! 野蛮人! お前たちが殺した鯨の血だ」と怒号されたり、広場に眼鏡をかけた人形(日本人を象徴)が吊るされ「死刑執行」と銛を突き刺されたりといった感情的な示威行動が繰り返され、それをBBC(英国営放送)などが放送しました。

2000年代に入ってからも、たとえばオーストラリアの〝抗議〟は常軌を逸しています。捕鯨船にテロ同然の〝攻撃〟を仕掛ける連中を保護し、援助するほかに、テレビ局のスタッフが駐豪全権日本大使に「調査目的なら、われわれも日本人を殺していいか」と調査捕鯨に託けてマイクを突きつけたり、日本人観光客に玩具の銛を打ち込んで、戸惑う日本人の様子を映像に撮ってインターネットに流したりする。日本は長い間我慢を重ねてきたのです。

日本は突然、感情的になってIWCを脱退したわけではありません。2014年に南極海での調査捕鯨中止を命じた国際司法裁判所(ICJ)の判決がありました。裁判所は、原告国のオーストラリアなどの「IWCの目的は捕鯨産業の秩序ある発展ではなく、鯨類の保存に〝進化〟した」という主張を認め、日本は敗訴したのです。

IWCがクジラの捕獲を一切認めないことを目的とするならば、そのIWCを通じて「持続可能な捕鯨」を求める道は閉ざされたと考えざるを得ません。

話を端折りますが、こうした流れのなか、水産庁は今年の初め頃からIWC脱退を視野に入れた内政各方面への折衝を活発化させ、国際協調を重視する外務省との対立を乗り越えて今回の政府の決断に至ったのです。その核になったのは、捕鯨を断念すればマグロなどの水産資源も同様になりかねないという危機感、そして捕鯨推進国を中心に〝新たな国際捕鯨委員会〟をつくろうという構想です。

水産庁の構想が実現に向けて順調に進むかどうか未知数ですが、朝日新聞のように「短慮と言わざるを得ない。脱退はやめるべきだ」(12月23日付社説)とは私は考えません。日本は長い間、議論の場で苦闘を重ねてきたのです。国際協調の名のもとに他国に寄り添い続ける外交からの脱却、主体性の発揮という大いなる挑戦と受け止め、政府の決断を支持するものです。

ここで戦後日本の国家としての姿を想起すると、先の大戦の敗北から教訓としたことは、通説としては「国際的な孤立はいけない」ということでした。国際親善に失敗すれば孤立し、孤立すれば周囲からいじめられ、いじめに反発すれば直ちに国際紛争に発展し、武力を放棄し平和国家としての道を歩む日本はそれに耐えられない。
したがって国際親善を第一として周囲との摩擦回避に努め、相手の要求はのむ。先行譲歩こそが日本の生きる道──となってしまった。

たしかに「孤立」は辛い。しかし、孤立よりもっと辛いことがあります。それは屈従や隷属で、意地悪されたり、いじめられたり、無視されたり、〝貢献〟を強要されたり、内政に干渉されたりということを戦後の日本はどれほど経験してきたか。それが「敗者の戦後」の現実だと言われれば、そのとおりでしょう。

しかし、いつまでも「敗者の戦後」を過ごすわけにはいきません。国際親善を求めるのはよいのです。しかし、そのためには相手を選ばねばならないし、時々は程よい距離をとるのも重要で、いい加減そうした外交術を身につけねばなりません。

IWC非加盟のカナダやインドネシアは現在、商業捕鯨を行っていますが、彼らがそれで国際的な窮地に陥っているか。今後、反捕鯨国の日本への反発、非難が強まる可能性がありますが、国際社会では摩擦は常態と心得て、国威と国益のために協調が効あるなら協調する、反撃が必要なら反撃するという、柔軟にして強靭な日本をつくっていきましょう。新しい御代はそうありたいものです。